思い出の詰まったフエルアルバムをついにデジタルデータのみにした日

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実家に置いていたフエルアルバムを4冊捨てることになった。

私が生まれた時から中学卒業くらいまでの写真。フエルアルバムそのものがとてもしっかりした作りなので、4冊となると場所も取るし威圧感も凄い。ということで実家に置いたままになっていた。

いつかは処分するとは思っていたが、なんとなく子供の写真は、自分のためではなく、それを撮ってきちんとまとめてくれた親のためのものではないのか、という気がしていたので、親が生きているうちは捨てないだろう…とぼんやり思っていたのだが…。

居住地区のゴミの有料化が決まったことにより、母から処分の提案があっさり出てきた。親から切り出してもらえると、正直ほっとする。かあさん、さすがだよ…その思い切りの良さ。


今時は写真もデジタルデータしか持ってない人が多いだろうけど、紙になると途端に捨て難くなる。何か思い出プラス見えない重みのようなものが生まれる。

自分で撮ったものなら判断も簡単だけど、自分の感覚で撮っていない、自分の意思で撮っていない、けどかわいく面白く撮ってくれている自分の写真は、なんでもポイポイ処分する私ですら捨てづらさを感じる。ましてや自分以外の家族などが写っていると、自分の物という範疇から少し外れてしまう。

しかしこういうことはタイミングが大事なので、今こそやる時…。

せめてデジタルで残しておこうと思い、試しに写真が剥がれるか剥がしかけたら、フエルアルバムの台紙にべったりと張り付き全く剥がれない。

剥がれないので丁寧に一枚ずつスキャンをとる…なんて面倒なことはできず、ここでも内心ホッとしながら、上からiPhoneのカメラで写真を撮って保存という最も簡単な方法にした。しかもページごとにまとめて。多少曲がっても気にしない。面白い写真だけは単体でも接写しておいた。

終わってみると、とんでもなく気持ちが軽い。これであのズッシリと重たいアルバムを「いつ」どうするのかというひっかかりは解消された。


思い出は大事だけど、形があると私には少々重いので、持ってることを忘れるデジタルデータくらいがちょうどいい。

写真を撮ったり見たりするのは好きなので、むしろどこでも見ることができるデジタルは、私には都合が良いのかもしれない。

紙の持っている匂いや懐かしさは形がなくなると薄れてしまうけれども、それが存在していたことを私が忘れなければそれで良いと思う。